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ブラームス 6つの小品Op.118についての雑記

 2022年5月7日に開催された、アリエッタフレスカピアノコンサート、お陰様で無事終演いたしました。ご来場くださった皆様、誠にありがとうございました。今日は、このコンサートで弾かせていただいた曲「ブラームス作曲 6つの小品作品118」について、感じたことを以下に書いてみようと思います。

ブラームスの小品に関する雑記

 昨年11月、渋谷で小山実稚恵さんのリサイタル「ベートーヴェン、そして」を聴きに行った。演奏はもちろん、舞台上の巨大なフラワーアレンジメント、その花々や作品のイメージと調和した美しい衣装に、目と耳を奪われた。なかでも、プログラムノートが素晴らしかった。小冊子になっており、小山さん自身のメッセージのほか、音楽評論家によるコンサートガイドが秀逸で、いつまでも心に残るコンサートとなった。プログラムノートには、ベートーヴェンの最後のソナタ第32番ハ短調とシューベルトが亡くなる直前に書き上げたソナタ第19番ハ短調のソナタには、「明らかに共通する世界観がある」といったことが書かれていた。私はそこに、今回演奏したブラームスの6つの小品Op.118を加えたいと思う。

口を開く深淵..

生と死の間…

異界へつながる裂け目…

小説「戦争と平和」のアンドレイについて、恋人が「あの方があんなふうになった…」と言わしめた死の直前の変化のような..

 この5月、アリエッタフレスカピアノコンサートで私が演奏したブラームスの6つの小品Op.118は、ブラームスが亡くなる4年前に作曲された、彼の最後から2番目のピアノ曲だ。もはや世間の評価など気にする気負いなどは影をひそめ、彼自身が表現せざるを得ないものを表現しているという印象を受ける作品で、精神的に深いつながりのあったクララ・シューマンに献呈された。彼には、なるべく内容や雰囲気が言葉(タイトル)によって固定されてしまわないようにとのこだわりがあった様子で、間奏曲というように、タイトルに具体性をもたせなかった。(1曲目、2曲目、4曲目、6曲目)人それぞれが自由に解釈すればよい、という作曲者の意図のとおり、ここでは私個人がこの作品から感じ取ったことを、自由に書いてみようと思う。

 私とブラームスの小品集との出会いは、高校生の時だった。彼の最後のピアノ曲Op.119-4に、故 松岡 貞子先生のご指導の下取り組んだ。重厚な音を出すことができず、この曲を弾くときだけは、肖像画に描かれている、髭を蓄えどっしりとしたブラームスの体型がほしいと願ったものだ。そして何より、ブラームスの「最後の」ピアノ曲なのだ。人生経験17年そこそこの自分には太刀打ちできるはずはないと、気持ち負けし、ついに自信を持って演奏することは一度もなく、別の曲へ移っていった。

 しかし、それでブラームスの小品集から遠ざかっていたわけではない。なぜなら、来日の度レッスンしていただいていたローゼンバウム先生の十八番が、ブラームスの小品集だったからだ。先生のリサイタル、聴講するレッスンでブラームスの小品は度々取り上げられ、耳にするたび、その魅力に陶酔した。ランチをご一緒した際に、先生にきいてみたことがある。「私の様な若い者が、ブラームスの晩年の作品を弾いても良いものなのでしょうか?」すると先生は、「もちろん弾くべきだ。なぜなら今から弾いていかないと、私の年齢になったときに弾くことができない。」とお答えになった。そのお言葉を胸に、その後お客様の前で弾くことはなかったが、家では度々演奏していた。そこには、それらが「いい曲」であることに加え、人生経験の浅い者が抱く、「人間はその人生でどんな精神的境地に到達しうるものなのか知りたいと」いう願望があったのだろうと思う。そういえば、吉田秀和氏がこんなことを書いている。「今日に至るまで彼(ブラームス)の音楽が多くの聴き手をもっているのも、そこにこの「より成熟したもの」「完成された姿」への憧れと愛着に通じるものが働いていると考えることができないだろうか?」(吉田秀和著「ブラームス」河出文庫P.51より引用」。私はそれに同意すると共に、自分もそんな聴き手の一人だと白状する。

 さて、人生の旅路の果てに、どんな心境が待っているのか。期待を胸に取り組んだブラームスのOp.118は、とにかく哀しかった。特に5曲目から6曲目にかけて消耗する。(下記に掲載の動画参照。)映画ロードオブザリングで、悪の騎士に剣を突きさすと、あまりの邪悪さに剣を刺した側もダメージを受けるシーンがあるが、ちょうどそんな感じだ。作品があまりに深い哀しみにつかっているため、弾くものもダメージを受ける。ブラームスは、何がそんなに哀しかったのだろう。私は、よく言われるような、クララへの愛と罪の意識からくる苦しみ、などではなく、人間存在の実存的なかなしみ、はたまた、無神論者の絶望(神を信じることができれば、希望を持つ事が容易なように、私には思われる。)ではなかったかと思う。ブラームスは無神論者だったようである。クララ宛の手紙には、こんなことを書いている。

「事実、人はただすべてを失うために生きているのです。そうして最後にゆくのは墓以外の何ものでもありません。しかし、その墓場のほかでは、すべてが前と変わらず、毎日が過ぎてゆくのです」(ブリュイール「ブラームス」本田脩訳、白水社)

 このような死生観を持っている者の、愛と哀しみが溢れているのが、Op.118なのだと思う。

 さて、40歳になった私である。ここ数年、東日本大震災、コロナ禍を経験したり、今回のウクライナ戦争に胸を痛める一人として、(実際に戦争の渦中にある人とは比較にはなるまいが)、それなりに、死を身近に感じる経験をしてきた。また、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」といった名著との出会いも大きい。(戦争と平和に描かれていることと全く同じ悲劇が、今、小説の舞台であるロシアの侵攻により起きていることに驚愕し、人間の本性は時代へ経ても変わっていないのだということに衝撃を受けた。)こうした社会的な出来事等を前に、ついつい哀しく暗い気持ちになってしまう。それに加え、普遍的かつ個人的な事もある。子どもから社会人になり、妻そして母へと自分が変わっていくし、家族も変わっていく。大切な人との別れは避けられない。生きているものには避けがたい死という事実は、幸せな時も、チクチクと胸を刺し続ける。そんな事を考えているところに、この哀しい曲集を弾いたものだから、本当にガックリきた。5曲目ロマンスに、愛・やさしさ・幸せを感じれば感じるほど、哀しみ・絶望が深くなる。6曲目の間奏曲を弾きながら「人生ってこんな最期が待っているのかな・・・」と絶望的な気持ちになってしまう。

 しかし、救いがある。彼は4つの小品Op.119を残しているではないか!Op.118-6からOp.119-1への移行は、戦争と平和のアンドレイが、死んだと思っていた老木から新芽が出ているのを発見し、人生はまだ終わったわけではない、と生気を取り戻すシーンを思い起こさせる。そして、終曲の「苦難に打ち勝つぞ」とでもいうような気概。ブラームスのピアノ曲の創作が、Op.118-6で終わっていたら希望を失いそうになるが、Op.119-4があって良かった。ここで、冒頭に書いた小山さんのリサイタルに話を戻そう。2曲のハ短調ソナタの後、アンコールはバッハの平均律1巻1番ハ長調のプレリュードだった。Op.118-6からOp.119-1への移行やアンドレイの復活と同じような感覚。これはまさに、自然の営みそのものでもある。

 さて、ここまでブラームスの晩年の小品について、自分が感じたことを書いてみた。いつかリサイタルで、6つの小品Op.118、4つの小品Op.119を続けて弾いてみたいと思う。ブラームスの小品は、人生の糧になる傑作である。

野島 恵美


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